近似トレバ虚構

実験的創出Blog

fast morning|叙事情#9

 
 晩秋の或る日曜の朝七時半、何故か無性に朝マックを食べたくなった。その願望は唐突だった。最近、私の周りで朝マックが話題に上がったという訳でもない。強いて言えば、随分前に会社の同期が朝マックを食べた話をしたことと、先月読んだ大﨑洋の『居場所。』のハッシュポテトの文章が印象に残っているぐらいだ。あと、木村拓哉マクドナルドのコーヒーを飲むCMも思い出した。
 
 休日の朝の活力と倦怠が入り混じった頭で、私は行くか行くまいか少し考えた。休日に朝マックを食べるなど、今まで浮かんだことのないアイデアだった。そのことに、私は自身の深い内部からの要求を感じ取り、自然と家を出る支度を始めた。
 
 支度と言っても、少し外出するだけなので服装にこだわりはない。休日の部屋着に、手ごろな緑のジャンパー、もう何年使っているか分からないボロボロのリュックにスマホと財布を放り込む。ここで、せっかくなら少し有意義な朝にしてみようと、家計簿をつけるためのレシート入れと、昨日図書館で借りた笹公人の歌集、そしてノートパソコンをリュックに入れた。ノートパソコンは、時間があったらコーヒーをすすりながら文章でも書いてみるためのものだ。まだ布団を被っている家族へ一言告げ、ボロボロの黒いシューズを履いて家を出た。
 
 
 日が出て間もないこともあり、冷たい大気が肌に刺さる。街では紅葉が盛りになっているが、すでに冬に片足を入れているように思える。ただ、日ごろは恨めしいこの冷気が今は心地が良かった。まだ眠たげな脳みそに冷や水を浴びせる気持ちで、両手を広げ鼻から空気を目一杯に取り込む。一〇年以上使い込んでいるママチャリにまたがる。見ると、ボディが黒く汚れていた。拭いてあげないといけないなという思いを胸にしまって、ペダルをこぎ始める。
 
 最寄りのマクドナルドは、自転車で一〇分もかからない距離にある。日曜の朝ということもあり、車も歩行者もまばらだったが、お揃いのネックウォーマーを身に付け歩くカップルが目についた。その服装の暖かさに、自分の手の冷たさを意識した。金属のブレーキレバーがとても冷たく、そろそろ手袋を用意した方がいいだろうと思った。歩道では日蔭と日なたが交互にやってくる。日蔭は冷たく、日なたは少し暖かいがやはり冷たい。体の冷えを覚えるほど、ホットコーヒーへの恋しさが高まる。
 
 
 マクドナルドに到着した。車が数台停まっていたが、店内は空いている。駐輪場近くで落ち葉を掃いているクルーの女性と挨拶を交わす。その時、自分がその人を「店員」ではなく自然と「クルー」と認識していたことにハッとした。「クルー」は店舗スタッフの総称として一般的にも用いられる単語ではあるが、私はこの言葉をマクドナルド以外で用いられている場面に出会ったことがない。それほどに、私の中での「マクドナルド」と「クルー」という事象の結合は非常に強いのだろうと感じた。この結合の強さは私自身の傾向か、それとも企業のプロモーションの賜物か。私は日頃からマクドナルドに直接触れる機会がそれほど多くない人間である以上、おそらく後者の影響が大きいのだろう。このように、企業は一個人の思考に対する多大なる工作を、日常の中で密かに進めているのではなかろうか? その工作はあまりに繊細で、社会に溶け込み過ぎているため、私たちは気づかぬままに多くの影響を受けている。「人は一日に数千の広告を目にする」とはどこかで見聞きした話だ。その一つ一つの効果は微々たるものだが、それらが毎日、絶え間なく、今この瞬間も脳に流れ込んでいるとしたら、全くの影響を受けないことは不可能だろう。もしかしたら、私が今日唐突に朝マックを食べたくなったのも、気づかぬところで密かに行われていた工作が結実したからかもしれない。私の行動は全て、そのように何か別のものから運命づけられているのだろうか。常に何かから影響を受け続けるこの世界で、自由意志は存在し得るのだろうか。
 
 そんな憂鬱な思考が働いたとしても、いま私が朝マックを食べたいという意思は揺らがなかった。自転車から離れ、店のドアを開けた途端、視界が酷く曇った。この時、私が眼鏡をかけていたことを今更ながらに強く意識した。店内は暖房が効いていて暖かかったが、そのせいで冷たいレンズで結露したのだ。見渡すと、空いているテーブルがいくつかあったが、だいたいのテーブルを年配の男性が一人で占めていた。各々新聞を読んだり、何か作業をしたりしていた。限られた視界でレジに向かうと、厨房にいた女性のクルーが「いらっしゃいませ、おはようございます」と言いながらレジについた。挨拶を返しながら、メニューを眺める。注文はホットコーヒーとハッシュポテトと決めていたが、一応ちゃんと存在するか確認したかったためメニューを探すが、なぜかホットコーヒーを見つけられなかった。あまり待たせてもよくないと思ったため、「コーヒーを一つ…」と自信なさげに呟く。
 
「ホットコーヒーですね。サイズはSとMありますが―」
 
「あー…、Sで、お願いします」
 
 その後、一瞬間が空き、注文確定と思われそうだったため、「あと…」とすかさず呟きながらメニューからハッシュポテトを探した。苦戦したが、こちらは左下に小さく書いてあったのを見つけた。ただ、実はこの時まで「ハッシュドポテト」と思っていたのだが、マクドナルドでは「ハッシュポテト」なのだった。
 
「ハッシュポテトを一つ…、以上で、お願いします」
 
「ホットコーヒーのSをおひとつ、ハッシュポテトをおひとつ。お会計二七〇円になります。店内でお召し上がりですか?」
 
「はい、お願いします」
 
 値段は気にせず頼んだのだが、安いなと思った。カフェであればコーヒー一杯でもっと高そうだった。小銭を取り出そうとするも、レンズがまだ曇っており、探すのに時間がかかった。そして探したあげく小銭が足りないことに気づき、結局千円札で支払った。「20」と書かれた札を渡され、テーブルに促された。
 
 日が良く射している四人席に座る。外食慣れしていないのもあり、レジでもたつく。スローな休日の朝にしようと思ったが、心は焦りがちである。そもそも、この店自体が「ファストフード」にふさわしく忙しい雰囲気が漂っているように思えた。店内の熱気、クルーの口調、厨房の物音、次々と入ってくる車、客…。普通の人であれば気にならないであろう要素に、私は急かされるような心地がした。一息つき、リュックからレシート入れを取り出し、今月分の家計簿をつけていく。思えば、この作業自体がそもそもスローな朝を過ごす人間の発想ではないだろうと思い、苦笑した。
 
 その間に五分も経たないうちに注文のものが届いた。カップに入ったコーヒーと小振りなハッシュポテト。大きなプレートに対してこじんまりとしているが、私にとっては朝に外食をする時点で贅沢であった。カップの口を開くと、湯気とともにコーヒーの香りが広がった。カップの熱を両手で包み込んで、火傷しないようにゆっくりと口に伝え、舌で転がす。味はいたって普通のコーヒーだが、特別な感はあった。次にハッシュポテトを小さく噛み、その細かいポテトを一つ一つ味わう。このマイナーな感じに惹かれるものがあった。フライドポテトやナゲットなどの主流からは少し外れた傍流。独り占めしたいと思わされる手軽さと深さ。それでいて、朝の時間帯しか食べられないという表舞台に立たない謙虚さも、根強いファンがいることを裏付けているように思えた。ただ、揚げ物とコーヒーは私にとっては少しミスマッチだった。
 
 この二つを少しずつ嗜みながら、家計簿の作業を進めた。それが終わりかけ、予想よりも出費がかさんでいることに落胆したところで、レジに少し列ができるほど客が来ていることに気づいた。店内を見渡すと空いているテーブルは一つしかない。この状況に私はまた急かされているように感じた。四人席に一人座っている客は私以外にも数人いたが、なぜか私に「どいてくれ」と言われているような気がした。本当はゆっくり本でも読みたかったが、焦りながら読むのも気持ちよくないだろうと思い、残っていたコーヒーを飲み干し、早々に店を出た。
 
 
 店でゆっくりするという行為は、私には向いていないのかもしれない、と帰り路に自転車をこぎながら考えた。私は性格上、どうしても周りの状況が気になってしまう。それに、両親が飲食店を営んでいることもあり、長く居座る客の愚痴を度々聞かされているため、その行為がいかに店に迷惑をかけるかも承知していることが、私の焦りを助長するのだろう。まして「ファストフード」という店舗形態は、客の回転率の高さが売りである。長く居座る客の悪影響は、両親のそれより大きいだろう。
 
 ゆったりとした休日の朝を送ろうと思いきや、平日以上に急かされる朝となった。ただ、朝マックの優越感は本物だった。これを穏やかな心で享受できない私は、幾分か損をしているのだろうか。
 
 

憤りSeptember|叙事情#8

 
 二〇二三年九月二日、土曜日の朝八時。今日は休日ではあったが、皮膚科に行くため朝早い時間から家を出る。この後、私は少々不本意な経験をした。その経験により、現在の私の人間性が露呈されることとなったため、少し書き留めておきたくなった。
 
 皮膚科までは自転車で二十分ほどで着くが、診察が始まるのは九時からである。着いたとしても、三十分ほど待つことになる。ではなぜこんなに早く家を出るのかと言うと、九時前に受付が行えるからだ。
 私は平日は十八時以降まで仕事、さらに日曜日は休診である。よって、有給を取らない限り、私は土曜日しか診察を受けられないわけであるが、土曜日も九時から十三時の間しか開いていない。当然、私と同様の人間は多く存在し、土曜日の皮膚科は常に多くの待ちがある状態になる。下手をすれば、たった薬をもらうためだけに二、三時間待たされかねない。
 読書や勉学など、時間を過ごす手段はいくらでもあるのだが、せっかくの貴重な休日である。家でゆっくりと過ごしたい気持ちは、ご理解いただけるだろう。よって、可能な限り早く受付を済ませ、待ち時間を最小限にしようという試みを私は行いたいのだ。
 
 八時十五分、皮膚科に到着した。駐車場の一台分の枠をそのまま駐輪場とした場所に自転車を置き、入口へ歩いて向かう。どうやら自分が一番のようであった。入口は自動開閉のドアであったが、自分がその前に立ってもドアは動かない。ガラス張りの自動ドアには「受付は八時三十分より」という張り紙があった。仕方なく、ドアから数歩離れた手すりに寄りかかって、持ってきた本を読み進めることにした。
 
 十分ほど経った時に、駐車場に一台の軽自動車が停まり、降りてきた老夫婦が私のいる入口の方へ向かってきた。私の目の前を通り過ぎ、そのまま自動ドアの前に二人が立つが、ドアは動かなかった。もしこれでドアが開いたら、先に受付されてしまうと一瞬焦りが生じたが、すぐに引っ込んだ。
「これって受付できないんですか? 前来たときはできましたけど」
 夫婦の女性から私に尋ねられる。私は時計を見て、今が八時二十六分だと確認した。
「八時三十分になったら、受付できるんじゃないですかね」
「あぁ、そうですか。分かりました」
 この程度の会話を交わしたのみであったが、後から振り返ると、私の一番の予約が脅かされかねなかっただけに、この女性に対してほんの僅かな敵意を向けていたかもしれない。
 
 その直後に入口の奥から職員が出てきて、自動ドアの奥に飲食店で名前を記入するような受付用の名簿用紙が設置された。職員が自動ドアの前に立っても開くことが無かったため、まだ中へは入れず、受付もできなかった。
「名前、書かれないんですか」
 先ほどの女性から再び尋ねられる。「書かないのなら私たちが先に書きますよ」と遠回しに伝えられている気がして、すでに十〇分以上待っている私は少しだけ苛立ちを覚えた。
「まだドアが開かないですよ」
 少し冷たい口調になってしまった。我ながらなぜこのような些細なことで気に障るのか不思議であった。
「あぁ、そうですか。すみませんね何度も」
 少し圧を感じさせてしまったのか、女性は「すみません」と口にした。
 
 八時三十分を過ぎた。この時、私はてっきり職員が一度入口に来て、受付の開始を案内すると思っていた。よって、職員が来ないということはまだ自動ドアは開かないのだろうと解釈して、本を読み続けていた。
 その一、二分後、バイクに乗ってきた一人の男が、入口手前に立っていた私と老夫婦の横を通り過ぎて、自動ドアの前まで歩いてきた。その男が自動ドアの前に立った途端、なんと自動ドアが開いたのである。男は何食わぬ顔でそのまま中へ入り、受付名簿の一番目に名前を書いてしまった。
 私は慌てて本を閉じ、その男の後ろに並ぶ以外に何もすることができなかった。男の真後ろで「ちょ…ちょっと…」とはぼそぼそ言っていたかもしれない。
 焦りに引き連れられるように、だんだんと憤りが湧いてきた。先に待っていた私と老夫婦を無視して、そそくさと名前を書いてしまった男の配慮の無さへの憤り。
「私はあなたよりずっと前から待っていたので、先に書かせてもらえませんか?」
 この一言を発することができない自分の非力さへの憤り。そもそも「配慮の無さ」や「先に待っていた」という言い訳が通用しない、過程がどうであれ「早い者勝ち」の結果論に軍配が上がってしまうこの社会構造への憤り。
 
「ついさっきまでドア開かなかったんですけどねぇ」
 名前を書いている男の真後ろで、私の後ろにいた先ほどの女性にこう伝えるのが精一杯であった。私なりの皮肉のつもりであったが、おそらく男には全く響いていないだろう。男が書き終わって列から抜ける。私は名前を書く前に「No.1」の欄に書かれた男の名前を睨んだ。名前を覚えてやると一瞬意気込んだが、こんな無駄なことに頭を使えばまた自分が損するだけだと我に返った。
 
 名前を書き終わり、また元の手すりに寄りかかると、駐車場に停めたバイクにまたがりヘルメットを着けている先ほどの男が視線の先にいた。今にも立ち去りそうな様子である。
「気遣いもせずに名前を書くだけ書いて診察前までぶらつこうって魂胆かい。そもそもバイクは駐輪場に停めろよ」
 こんなことを心の内で愚痴りながら、私は舌打ちをした。
 
 休日の朝から思うように行かず、正直不愉快な気分になっていた。思えば、先ほどから些細なことで気に障っているのはここ数日「思うように行っていない」からかもしれない。直近だと、昨日は作成した資料について何度もダメ出しされた。帰りに駅で学生と思われるフィリピン人に呼び止められ、学費が足りないと千円でお菓子を買わされたが、後からそれが詐欺まがいの組織的な金稼ぎだと分かった。「外国人 お菓子売り」と検索すると、まさに自分がその時手に持っていたものと全く同じ包装のお菓子の画像が何枚も出てきて、虚しくなった。優しさに付け込んだあの外人に憤り、また自分の優しさを恨んだ。
 その翌日の朝に先ほどのような不幸があり、心が荒んでいたのかもしれない。
 
 その後、連なるように車が駐車場に何台も停まり、何人も受付を済ませた。診察十五分前にして、すでに十人ほどいそうである。皮膚科に来る時までは涼しかったのだが、待っているうちにじめっぽい暑さを感じ始めていた。車で来た人々はクーラーの効いた車内でくつろげるだろうが、私は外で待っているほかなかった。憤りと暑さが体を侵し、本の内容もほとんど頭に入らない。
 その状況にさらに苛立ちそうになった時に、入口の方から職員の女性に声をかけられた。ここに通い始めている時からお互い見知っている方だ。
「外暑いでしょ。あまり変わらないかもしれないけど、なか入って座っていいよ!」
 その一言がとてもありがたかった。一人で悩みを抱えている時、「誰かと繋がる」というだけで多少の救いになるとこの時知った。
 
 入口から待合室まではもう一つ自動ドアがあり、そちらはまだ開かないようであった。待合室は当然クーラーが効いているはずだが、狭い入口にはクーラーは無くて確かに涼しくはない。ただ、日が遮られていることと座れる椅子があるというだけでも十分だ。本の内容は頭に入るようになった。
 数分後、先ほどの男が再び姿を現した。男は息子と思われる三、四歳ほどの坊主頭の子どもを連れていた。入口に入り、私の横を通って先ほどと同じように自動ドアが開くかどうか確かめていた。今度は開かなかった。今度からはいつ自動ドアが開くか分かるように、ドアの目の前に立って待っていようと肝に銘じた。
 
 そこからは問題なく診察を受けられた。八時五十分ごろに案内があって、待合室に入り、一番目の親子が呼ばれる。その後に自分が呼ばれ、九時十五分ごろには薬局へ向かえた。
 会計待ちの時に、隣に先ほどの男とその子どもがいて、仲の良い様子がうかがえた。この男は少し配慮が足りない一面があるが、子どもと遊ぶ親の一面を見ると、日ごろの苦労を察することはできた。平日は自分と同じように働き、その上で子どもの面倒もみて、休日も子どものために今日のように朝早くから皮膚科に受付に来る…。
 ある一側面だけで人間を評価してはならない。改めてそう思わせられる出来事であった。ただ、親の一面を知ったとして、自分がされたことを許せるほど、私はまだ大人になり切れていなかった。
 
 薬局で待つ間に、室内に響くラジオで竹内まりやの「September」が流れていた。
 
  私一人が傷つくことが
  残されたやさしさね
 
 前後の文脈は定かではないが、この一節が妙に耳に残った。
 憤りに始まる九月。今年ももうあと四か月。

 

監獄のような教室の先は|夢判断#14

 

 自分を含めた十数人の人間が真っ暗な廊下を歩いている。壁や床は酷く錆びれている。コンクリートか、木造か判別がつかないほど、壁床一面に黒い錆がびっしりとついていた。
 廊下沿いにあった一室に入れられる。部屋の正面に黒板があり、それに向かうように机が人数分並べてある。さながら学校の教室のようであったが、異なるのはとにかく一面が黒く汚れていることだった。黒くない部分は白く、激しい筆跡の水墨画のようだ。
 私たちはその机に座らされる。辺りには重苦しい空気が立ち込める。ここはどこなのか、そもそもどういう経緯でここに来ることになったか、そして私の周りにいるこの人間たちは何者なのか、何もかも分からなかった。ただ一つ感じ取れたのは、この場所が俗世から限りなく離れた、地下の奥底のような所であることだ。地球の地盤が天井を伝って私たちにのしかかってくるような重苦しさがあった。もう二度とここから出られないかもしれない、そう思わせる何かがある。

 

 どうやらこれからしばらくここで何かを学ばされるらしい。教室のように見えたのはあながち間違いではなかった。
 ただ、先ほどから私たちを酷く怯えさせるものがある。廊下からの叫び声、それは断末魔に限りなく近いものであった。人間とは思えない”怪物”から出ているような濁音混じりの叫び。それが、真っ暗で錆びれた廊下から響いてくる、断続的に。耳の穴をドリルで抉られかき混ぜられているようなあらゆる痛み。苦しみ。辛さ。絶望。

 

 それらを感じながら、目が覚めた。

 

 自分の部屋だ。辺りは明るい。そして遠くから母の喚き声が聞こえた。
「もう八時過ぎてる!」
 それは私の会社への遅刻を意味していた。私は諦めるように、再び目を閉じた。

 

 

 そして、静かに、あまりに静かに、瞼だけを動かすように目を覚ました。先ほどよりも暗い、自分の部屋である。そのまま横になった体制で、しばらくぼうっとしていた。先ほどまで全く違う世界にいるようだった。頭には、先のグロテスクな教室での映像が残っていた。


 ゆっくりと身体を起こし、時計を確認した。早朝、五時半。
 先ほどの八時の世界もまた、夢の中であったらしい。私の中に微かな安心感が生まれる一方で、腑に落ちていない自分もいた。先ほどの八時の世界を、どうしても夢だと思えないのだ。夢にしては、何か独特な現実感があの一瞬にはあった。

 

 その感覚を覚えて以降、いつもと変わらない朝の日常の中に、昨日までとは異なる何かを感じつつあった。
 朝の支度の円滑さ。家を出る前の余裕から、普段は読む時間のないニュースレターに目を通せた。いつもはリュック型にしていたバックを肩掛けにする。いつもと同じ時間の電車のはずが、見慣れない乗客が多い。いつも渡っている横断歩道の模様はこんなものだっただろうか。


 そんな嘘か真かも分からないことに気づきながら、私の中には突拍子もない考えが浮かんでいた。「ここは実は、先ほど朝八時だった世界なのではないか」と。私は昨日眠りについてから、先ほど朝五時に目覚めるまでの間に、世界を平行移動してしまった。そこではもはや時間の常識は通用せず、だから時間に狂いが生まれている。いや、「朝八時だった世界」が実は昨日まで自分がいた世界で、もう一度目が覚める間に「朝五時半の世界」に来てしまったのか。


 今はどちらでもいい。もしそうならば、問題は「私が寝ている間に何が起こったのか」ということである。私は一つ確信していた。きっと、今の私はあの監獄のような教室で〝何か〟を学び終えた私なのだ。私が忘れているだけで、昨日から今日の間、途方もない時間が存在しているのではないか。いや、もはや時間と言う概念を超えた空間に、私は身を置いていたのだろう。自分があの教室にいたという感覚すら忘れている程、途方もない存在。

 

 「五億年ボタン」という漫画を基にした思考実験を連想していた。ボタンを押すと百万円がもらえる代わりに、意識だけ何もない空間に飛ばされて五億年間過ごす必要がある。しかし、五億年が過ぎると記憶がリセットされ、百万円を貰う時には自分が別空間で五億年過ごしたことなど全く知らない。
 今の私はまさにそのような状態にあるのではないか。私は昨日眠ってから先ほど五時半に起きるまで、意識だけがあの教室に、五億年のように長い時間存在していたのではないか。その大半の記憶はないが、感覚だけが僅かに残っている。その感覚が世界を微妙に異なって見せているのではないか。

 

 そんな戯言とも取られかねない考えを、遊び半分で本気にしながら、出社前には普通しないような執筆をしている。

舞台と命|夢判断#13

 

 気が付くと、広いホールの席に私が座っている。照明が落とされていて辺りは薄暗く、目線の先にある舞台だけが光を放っていた。私の目にそれは小さく映っていることから、自分が最後列近くに座っていることが分かる。舞台ではまだ何も行われておらず、まばらに空席ができていた。

 私は舞台を見に来た客のつもりであったが、何故か客をもてなす側の人間、要するにスタッフとして扱われていた。私以外にもそのような人間はいたが、全員男性であるところに違和感を覚える。我々は「ボーイ」と呼ばれていた。上の者に束縛され、いくつかの命令に従う必要があるようであるが、給与は出ないとのこと。どうやら奉仕活動であるらしい。周りの男たちはこの状況を当然のように受け入れている。私が戸惑う素振りを見せると、隣にいた男に声をかけられる。
「私たちはお客様に気持ちよく舞台を見ていただくための振る舞いをするのです。」
 その単調な口ぶりは丁寧であるが、感情を捉えにくく、不気味に思えた。薄暗い中、その顔を確かめると、自分と同じぐらいの年齢に見える。似ている人間が会社の同期にいた気がした。


 舞台の開演まではまだ時間があるらしく、その間我々ボーイは接客やマナー等の指導を受けた。指導をしていた女性の言動は高圧的に感じられる。きっちり固めた短髪や、鋭く細い目、蛍光的な口紅、ホテルマンのような服装なども、その高圧的な要素を高めていた。指導が始まってしばらくし、時計を見ると午後五時であった。この時、私は唐突に午後六時から友人と食事をする約束があったことを思い出した。そして、なぜ私はこの場にいるのか、余計に分からなくなった。とにかく、約束をしている以上、午後六時になる前に隙を見計らって、この場から抜け出す必要がある。


 開演時間が迫ると、興奮の笑みを浮かべる女性らが流れ込むようにホールに入り、各々の席に着く。先ほどまで客席の後方に集まっていたボーイは点々と散らばり、客と混ざるように席に着いた。私は最初とほぼ変わらない、最後方の席に座る。

 舞台が始まった。出演者は「美少年」と称するべき顔の整った男性俳優ばかりで、剣術等の派手なアクションが続く。客がほとんど女性であったことに頷けた。それ故に、とても私の趣味に合うものとは思えなかった。この会場に来るまでの記憶が全く無かったため、なぜ私はこの舞台を見にこようと思ったのだろうと、つくづく分からなかった。
 舞台俳優が印象的なアクションや台詞を決めるたびに、客席からは甲高い歓声や拍手が湧く。我々ボーイはそれらに合わせるように、めいいっぱいの拍手を送る。これは舞台を盛り上げるための”サクラ”としての役割なのだろうか。私にはサクラなど必要ないほどに、盛り上がっているように思えるのだが。しばらくそのようにボーイとしての仕事を全うしていると、見回りをしていた女性から私だけ拍手を制止された。
「命を張っていないのでしたら、拍手はしないでください」
 全く理解ができなかったが、その高圧的な態度に蹴落とされたように私は拍手を止めた。周りのボーイは私に構うことなく、拍手を続けている。よく見ると、私以外の観客は何かを首から下げていた。ホール全体が揺れ動く程の拍手が響く中、私だけが何もできずただ座っているだけだった。私は確かな屈辱を感じていた。


 ここで先ほどの「命を張る」というのは、ある種の課金制度なのではないかという考えが浮かんだ。そうだとしたら、なるほど立派なビジネスだ。このホールにいる観客全体はいま共同幻想に包まれている。舞台の上で繰り広げられる別世界に身を置く幸福な幻想だ。この幻想の中だけでは、ホールの外に無限に広がる醜悪な現実のことなど一切忘れ、自分の理想的な世界のみを味わうことができる。そんな空間から排斥されることはどういう意味を持つのか。強固な共同幻想からの孤立を感じれば、どんな人間でも居た堪れなくなる不安と羞恥を覚える。それを避けられ、確実に幻想に浸れるシステムが「命を張る」という選択肢なのだろう。確かに、いま周りで狂ったように歓声と拍手を舞台に捧げる人間どもは命を削っているように見える。それも自ら進んで命を削っている。命を削ることに幸福を覚えている。その空間で何もできなければ、その人間は命を弄んでいるように感じられてしまう、今の私がそうだ。


 時計を見ると、すでに午後七時を回っている。この時、友人との約束は、実は明日であったことをふと思い出した。だとしたら、私はやはり自分の意思でこの舞台を見に来たのだろうか。今もなお熱狂に包まれるホールの最後列で、私だけが静かに舞台を眺めていた。

 

粒子の旅路(四)|夢判断#12

 とても長い年月が経ったように思えた。意識を取り戻した私は目を開ける。しかし、目を開けても映るのは暗い闇だった。肌の感触から地面は砂であることが分かる。大気は冷たかった。上を見上げると、三日月よりも細い月が浮かんでいる。夜になっていた。辺りに電灯はもちろん無く、人の気配も無かった。蠅と対峙していたのが、遠い記憶に感じられる。そもそも今いるここも、元いた場所のように思えなかった。そうしてしばらく居座っていると、少し離れたところから波の音が聞こえてきた。あり得ない。今まであの国で海なんて見当たらなかった。しかし、私は何となく気になり、音のする方向へ歩き始めていた。

 

 目が闇に馴染んでくる。そこには確かに海が広がっていた。そして、視線の先に僅かな光明が見えている。あれは何だろうか。私はもう心のみに身を委ねていた。目的も思考もほぼ無に等しい。今の私を動かすものは心の機微だった。海に足を入れる。冷たいような気もするが、温かい気もする。私は光の方向へ歩く。水をかき分けひたすら歩く。光明の正体が露わになってきた。巨大な岩が海に浮かんでいた。その岩の表面が赤く燃えて光を放っている。マグマだった。マグマが岩の表面で渦巻いているのだ。そこに近づいていくについて、腰まで浸かった海にも熱が感じられてきた。

 

 マグマが渦巻く岩と対峙する。その渦の先に、何か荘厳なものを感じた。心に身を委ねていた私は、考えもせずそのマグマに手を突っ込んだ。体が徐々にマグマに引き込まれる。熱い、という感覚を遥かに超越した熱、もはやこれは魂の感覚だった。体の内部という内部、自分の精神世界にさえ、熱が迫ってきた。体が半分マグマに浸かった。自分とマグマが一体になるにつれ、その先に自分より数段大きな巨人が仁王立ちしているのが見えてきた。私はあそこへ向かわなければならない。確かな使命感が生まれてきた。

 

 

 体が完全にマグマに覆われると、そこは寺院だった。木造で、薄暗く、しかし目の前には金色に輝く観音像が立ち並んでいる。ここは本堂のようであった。なにより、その観音像の前に全身が青い巨人が腕を組んで立っていた。鬼であった。鬼など見たこともなかったが、私はその巨人を鬼だと確信した。その全長は六メートルを超している。

 

 自分が意識を完全に取り戻したのを察したのか、鬼はその巨大な体をくねらせ、私に向かって痛烈な蹴りを入れた。蹴りが直撃したと同時に、胴体の骨が砕け、内臓が破裂するのを感じた。しかし、痛みは全く感じない。私は猛烈に吹っ飛ばされ、壁に激しく体を打ち付けた。頭蓋骨が砕け、顔が歪むのを感じる。そのまま床に突っ伏し、起き上がろうとするも、足があらぬ方向に曲がっていてうまく立てない。鬼は私が立ち上がるまで仁王立ちを維持していた。私はなんとか立ち上がり、体勢を整えた。その様子を見届けた鬼は腕を振り上げ、殴りの動作に入った。私は先のマグマから得た全身の熱を右腕に集中させ、鬼と同時に腕を振り、拳と拳がぶつかり合った。

 

 その瞬間、私の拳から自分が砕けていくのが見えた。右腕、右肩、胸、左腕、腹、腰、右足、左足、心臓、首、顎、口、鼻、耳、目、脳。世界が光に包まれ、自分が粒子になっていくのを感じた。目に見えないほど細かく小さくなって、「自分」は消えたが、その粒子は決して消えず、世界と溶け合い始めていた。

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた。だが、まだ夢の中だった。目覚めたのは、見覚えのない部屋のベッドの上。目が覚めてからすぐに一人の女性が部屋に入ってきた。あまりにも理想的な女性だった。その女性は何も言わず、布団の中に入り込んでくる。

 

「話を聞かせて」

 

その一言のみ発してから何も言わなかったので、彼女の望み通り、今までこの世界で起こった全てのことを語り始めた。

 

粒子の旅路(三)|夢判断#11

 

 この国に来てから、私は宿泊について何も考えていなかった。しかし、あの食堂で私と談笑していた男性が偶然にも民宿を営んでおり、今日は空いているからうちに泊まっていけと言うのだ。なんという幸運。私は喜んでお願いし、民宿まで案内してもらった。民宿は夫婦で営んでおり、二人とも恰幅が良く、笑顔が素敵だ。異国で過ごしてすっかり疲れ果てており、その日は風呂も入らずに寝てしまった。

 

 翌朝、ハットさん(泊めてくれた男性のカウボーイハットが印象的だったので、私は「ハットさん」と呼んでいた。)から宿泊料の代わりとして手伝って欲しいことがあると頼まれていたため、朝食を取った後に出かける準備をした。

 

「あの男たちに飛びかかる度胸があるなら、きっとこの仕事もこなせるはずさ」

 

目的地に向かう途中でハットさんはこう言った。それほどの力仕事なのだろうか。内容を聞いたところ、害獣駆除だという。ハットさんは国全体で組織される調査隊に属しており、砂漠に大規模の害獣が現れたという連絡が先日入ったため、今日は集団でその駆除に当たる日だったのだ。そんな重大な仕事によそ者で素人の自分が加わっていいのかと私は言ったが、ハットさんはこう答えた。

 

「大丈夫だ。この仕事に必要なのは度胸とスタミナだけだ。第一、私も駆除は今回が初めてだ」

 

私は苦笑いでしか答えられなかったが、大丈夫と言うからには大丈夫なのだろう。私はハットさんの言葉を信じた。この仕事が予想をはるかに上回る壮絶なものだとは、この時の二人はまだ知らなかった。

 

 調査隊の集合場所に着くと、すでに多くの人が集まっていた。百人はいそうだ。集合場所の目の前には水平線が見えるほどの砂漠が広がっていた。みな肌が黒い中、私だけ異なる色の肌をしているのは気まずかったが、すでにこの国に受け入れられている私が疑念の目を向けられることはなかった。全員が整列すると、前に軍服を着た人が歩み出て語り始める。どうやら調査隊の指揮官らしい。

 

「今回、砂漠に出現したとされる生物に関する詳細は今もなお不明である。目撃者からは、数十メートルに渡る巨大生物というという声もあれば、豆粒ほどの小さな虫という報告もあり、生物種を断定することが難しい。しかし、いずれの報告に共通しているのが、飛行し、高速に移動するということだ。人体への危害は不明であるが、無理な接触は避けるように。皆の無事と安全を祈る!」

 

 指揮官からの説明を聞き、なんだかとんでもないことに関わってしまったという思いがした。隣のハットさんは鼻歌を歌って余裕そうだ。ハットさんだけでない、周りの人々全員から緊張というものを感じない。この国にとっては日常茶飯事なのだろうか。そう考えているうちに、調査隊一人一人に消火器のような形状の放射器と薬剤が詰まったタンク、そしてガスマスクが運ばれる。どうやらこれで駆除をするらしい。ガスマスクは常に着用しておくように言われた。各々、タンクと放射器を連結させ、それらを背負い、ガスマスクを装着している。私も周りを見習いながら準備を進める。

 

 いよいよ駆除活動が開始された。六部隊に分かれて、主に目撃報告のあった場所を中心に車や歩きで捜索する。ある部隊がそれらしき生物を発見すると、他の全ての部隊に無線で連絡が入り、そこへ集結して駆除を開始するという流れだ。私が属する第四部隊は十名で構成され、隣には常にハットさんがいた。歩みを止めずに辺りを見渡すが、相変わらず砂漠が広がるのみである。燃え盛る太陽とタンクの重みと砂の足場で体力が蒸発していく。しばらく進むと、先頭を歩いていた部隊長が手を上げ我々を制止した。何かに気づいたようである。確かに先ほどまでは無かった物音が聞こえる。風の音にも、車の音にも、飛行機の音にも聞き取れる物騒な音だった。音は徐々に大きくなり、近づいている。音だけでなく大気の振動も肌に伝わってきた。尋常でない気配を感じた。胸騒ぎがした。汗が首を伝った、暑さのせいではない。私は恐怖を感じていた。

 

「総員、構えろ!」

 

部隊長が声を荒げた瞬間、物音の正体が明らかとなった。確かにそれは飛行し、高速に移動し、豆粒にも、数メートルの怪物にも見えた。蠅の集合体だった。一匹一匹は小さいものの、それが数える気にもならない程の群れを成しており、ブラックホールのように渦巻く巨大な一つの生命体として砂漠に君臨していた。先ほどまでとは比べ物にならない轟音を立て、我々の元に向かってくる。部隊長はすでに他部隊と無線を繋いでいた。

 

「こちら第四部隊、対象を確認した! 数メートルに渡る蠅の群衆だ、すぐに来てくれ!」

「第二部隊はすでに駆除に入っている!」

「第六部隊でも確認した!」

「第一部隊は第三部隊とともに駆除を開始している!」

 

なんと他の部隊でも同様の生物とすでに対峙していると言う。ここまで同時に対象が現れるのは想定外であったらしい。第四部隊長が動揺しているのが目に取れた。すぐさま連絡のない第五部隊へ無線を繋げる。

 

「第四部隊から第五部隊へ! こちらで対象を確認した! 手が空いていれば合流してくれ!」

 

第五部隊からの応答はない。

 

「第五部隊応答しろ! 何かあったのか!」

 

蠅の集合体はすぐそこまで迫っていた。

 

「クソッ、やむを得ん! 第四部隊、駆除を開始せよ!」

 

 待ちかねていたと言わんばかりに私の周りにいた者たちが一斉にガスを放射し始めた。私は距離を取った後、放射を開始した。しかしこの規模、十名でどうにかなるものとは思えなかった。砂の地面が黒く染まる程、確かに蠅は死んでいるはずなのだが、一つの集合体として見ると最初に姿を現した時と全く変化が見られなかった。青空が広がる砂漠の空中で黒い物体が轟音を立てて渦巻く様子は見るからに異様で、畏怖の感情を喚起させる。私たちは必死に放射し続けたが、先頭の方にいた部隊長と二人の隊員がその黒い渦に飲み込まれた。渦の中はうっすらと人影が見える程度で、何が起こっているのかは分からない。ただ、彼らが飲み込まれた直後、渦の中から叫び声が聞こえた。その叫びで渦の外にいた私たちは、自分たちが対峙しているのがただの蠅ではないことを悟った。私の右前にいた男が喚き、ガスマスクを外し、機材を捨てて逃げようとした。しかし、その男はすぐにその場にうずくまって、のちに倒れた。それは蠅のせいではない。今、この場には薬剤のガスが充満していた。どうやらこの薬剤は人体にとっても危険なものであるらしい。ガスマスクを常に着用しておくように言われた理由が分かった。蠅の群衆が現れてからまだ三分も経っていない。これらのことが短時間で立て続けに起こったことで、私を含む六人の隊員は、ガスを放射し続けること以外考えられなくなっていた。あのハットさんもガスマスク越しに顔をしかめているのが分かった。

 

 

 我々は最初に対峙した場所からはかなり移動していた。焦りからか、渦に飲み込まれた三人の姿も確認できないままであった。我々は相変わらず渦から距離を取りながらガスを放射し続けるだけであったが、それまでほぼ一定の速度で移動していた蠅の渦が突如として突進するようにこちらへ向かってきた。私は横へ飛び込むようにして逃げた。他の者も同様に避けていたが、豊満な体格をしていたハットさんだけが遅れを取ってしまった。渦に覆われるハットさんだったが、まだ体の半分が渦の外に出ていた。

 

「助けてくれ‼」

 

そう叫んで開いたハットさんの口に蠅が流れ込んだように見えた。私の体はほぼ無意識にハットさんの元へ駆けていた。助けなくてはならないという考えが頭に浮かんだ時には、渦に飲み込まれようとしているハットさんの腕を掴んでいた。ハットさんの腕を必死に引っ張った。引っ張って、ハットさんの体が渦から出かかったときに、急に目の前が真っ暗になった。意識も遠のいていく。

 

粒子の旅路(二)|夢判断#10

 

 私は市場からそう遠くない食堂で腹ごしらえをしていた。木造の建物、吹き抜けの開き戸。西部劇からそのまま出てきたような店である。先ほどまでの市場とはまた違う世界に来たようであった。客と談笑しながら水を飲んでいると、これまた西部劇よろしく気性の荒そうな男が三人ずかずかと入ってきた。金髪のパンチパーマと、ドレッド、そしてスキンヘッド。カウンターにずしりと腰掛けるなり、マスターを呼び出す。

 

ジャックダニエルだ、さっさと出せ」

ジャックダニエルはうちには無いよ。ウイスキーが欲しいのかい」

「あぁ? じゃモーターヘッド出せ、イカれそうだ」

「それも置いてないよ、ここは酒場じゃないから酒は限られてるんだ」

「ふざけんな! 客を舐めてるのか‼」

 

金髪の男がマスターの襟を掴んだ。他の客は怯えている。私と会話していた男性が小声で教えてくれた。

 

「あいつらはきっとここらを縄張りにしているギャングの一員だ。おそらく下っ端だな。上の奴ならこんなちっぽけな食堂で騒ぎを起こしたりしない」

 

 

私が彼らを観察するように見ていたからか、マスターを掴んでいる男と目が合った。嫌な予感がよぎる。

 

「なんだテメェ、文句あんのか」

 

その言葉をぶつけられた途端、何故か闘志が燃え上がってきた。よそ者はよそ者らしく羽目を外してみよう。彼らが動く前に、私はその一人へ猛烈なラグビータックルを仕掛けた。体格では負けているが、油断していたらしく腰を掴まれた男はバランスを崩して地面へ突っ伏した。

 

「こいつ! やりやがったな!」

「ぶっ飛ばしてやる!」

 

他の二人が金髪男とともに倒れた私を乱暴に立たせ、ドレッドから一発お見舞いされる。私は二メートルほど吹っ飛ばされた。すぐさま私を立たせようとスキン男が胸ぐらを掴んだ隙に、私はそのハゲ面に頭突きを喰らわせる。髪がある分、私へのダメージは緩和される。スキン男へ追い打ちをかけようと拳を振り上げるも、いつの間にか立ち上がっていた金髪男にその腕を掴まれ、羽交い絞めにされた。ドレッドから顔面に一発、スキン男から腹に一発もらう。もう駄目だと思った矢先、何者かがスキン男に飛びかかった。さっき私と話していた男性だった。

 

「よくも崇高な食事の時間を荒らしやがって!」

 

そうだそうだと言わんばかりに、周りの男たちが金髪やドレッドにも掴みかかる。女性や子供も離れた場所から空き缶やゴミを投げつけていた。気が付けばマスターまでもが加わっている。

 

「何だお前ら! クソッ離せ!」

 

そんなことを口々に叫びながら三人の男は店の外に投げ飛ばされる。惨めに地面に這いつくばる男どもにマスターが叫ぶ。

 

「二度と来るんじゃねぇ! 悪ガキどもが!」

 

三人の男はよろよろと立ち上がり、何も言わずにその場を離れていった。それら一連の間、私は床に倒れていたが、三人の男が去った後に客たちの助けを借りて立ち上がれた。

 

「ありがとう、君が先陣を切ってくれたおかげで迷惑な奴は当分うちに来なさそうだ。今日は好きなものを食べていってくれ! 私からのサービスだ」

 

マスターはそう私に声をかけてくれ、周りの客も拍手で讃えてくれた。

 

 

 いつしか外は暗くなり、店は宴の場と化していた。マスターはどんどん酒を振る舞う。なんとジャックダニエルモーターヘッドも揃ってるじゃないか!

 

「あいつらの態度が気に入らなかったから出さなかったんだ。結局、あの騒ぎは私のせいだったというわけだな、ワッハッハ!」

 

そう笑い飛ばすマスターも肝が据わっている。もっとも、私は酷い目に合わされたわけであるが。しかし、私も酒が回っており、マスターとともに腹を押さえて笑っていた。