近似トレバ虚構

実験的創出Blog

文化少年の肉体回想|思索#2

 


 私はサウナの休憩室で、まじまじと見つめすぎないように、周りの人間を観察していた。ガタイの良い若者が多い。広く、頑丈な肩と背中。彼らの体格を眺めつつ、自分の腕や胸周りを見た。ジムには通っていないが、私もウエイトトレーニングは習慣としている。トレーニングを始めたころと比べると、体つきの変化は明らかだった。始めたきっかけは曖昧になってきているが、確か高校の運動会に向けて見た目を良くしたいという動機だった気がする。


 私の高校の運動会では、男は上裸になる競技がいくつかあった。もちろん多くの人目に触れる。周りには日ごろから強靭な体を築いている運動部の男がたくさんいる。その中で、軟弱でだらしない身体をしていては、幾分か自尊心に傷がつくだろうと、当時の私は察知したらしい。女子から少しでも良い男として見られたい、という思春期めいた欲求もあったと思う。運動会の数か月前から、右も左も分からない状態で、とりあえず腹筋を鍛え、腕立て伏せをしていた。ただ、これまで運動とほとんど縁の無かった文化男が、たった数ヶ月で運動部の輩と肩を並べられるはずもなく、その年の運動会は結局あまり変化の無い中途半端な身体で迎えていたと思う。その事実を目の当たりにして暗い感情を抱いていたのか、競技の中で頭に血が上って相手の男に飛びかかろうとしてしまったこともあった。その行為もまた、一つ上の学年のガタイの良い男に止められた。


 それで、トレーニングは無駄だと見なして辞めてしまったのか。否である。起伏はあれど、私は今に至るまでトレーニングを続けている。むしろ、トレーニングの負荷は年々増しているように思える。休憩しながら、「私はなぜウエイトトレーニングを続けているのか」少し考えてみた。挙げると細かい動機はいくつかあったが、整理してみると、「内向的」な動機と「外向的」な動機に分けられる。


 「内向的」な理由としては、「行動の結果が実体として確実に捉えられること」。簡単に言えば、トレーニングによって確実に自分の身体に変化が現れる、ことが動機になっている。先の高校の運動会に向けて始めたトレーニングは、実は全く無駄ではなかった。「あまり変化の無い中途半端な身体」というのは客観的な話であり、私自身は確かな変化を感じていた。たるんでいたお腹が少し引き締まり、肩に力を入れるとこぶのように浮き出て硬い。その変化に、当時の私は喜びを感じた。当時、多く時間と労力を割いていたのは、やはり勉学だ。正直、どんなに知識を詰め込み、問題が解けても、「これに何の意味があるのか」「将来に役立つのか」と、学生ならば誰しも一度は抱くだろう疑問を私も覚えていた。その中で、時間と労力を注げば、「身体の変化」として返ってくるウエイトトレーニングに対し、当時の私は大いに信頼を寄せた。「筋肉は裏切らない」という言葉があるが、あながち間違いではないと思う。三島由紀夫がボディビルを突き詰めたのも、同様の理由ではないかと思っている。私は三島文学に関する学術的な知見はほとんど持たないが、『金閣寺』などの中で展開した「『認識』か『行動』か」という議論で、「行動」の力を信じていた三島だからこそ、ボディビルによる変化も実感し、愛していたのではなかろうか? 


 「外向的な」理由は、「生物として他者より勝りたい」という欲求だ。その対象は特に男である。昨今はLGBTQ+の考えが広く浸透し、性に関して女性、男性という二項対立論は控えめになってきたが、それでもやはり同じ生物学上の男性に対しては強く意識する。他の男性と比較し、勝っていると自覚すれば、優越感という快楽が得られる。劣っていると自覚すれば、劣等感という苦しみが与えられる。劣等感を抱きたくないから、トレーニングにより鍛える。それで誰かより勝ったとしても、また別の誰かより劣っていると自覚して劣等感を抱けば、さらにトレーニングを重ねる。


 これだけ見ると、かなり負の動機でトレーニングを続けているように思える。しかし、男性より勝りたいという欲求は、やはり女性の存在があるから抱くものだ。他の男性を出し抜いて、女性から性の対象として見られたいという欲求は、生物としての根源的なものであって、抗えないと私は思っている。これは、生物の究極の目的は「生殖」だという前提に立っている。生殖し、子孫を残し、種族を存続させることは、生命が誕生して以来の全ての目的の根源にある。そのためには、生殖に至るまでに女性と男性が結びつく必要がある。その二者が結びつくためには、それまでに多くの同族の中から自分に合った個体を見つけ出す必要がある。個体を見つけ出すためには、その個体が魅力的でなければならない。その魅力の一つが「生物としての強さ」だと、私は思っているらしい。社会的な生物である人間は、もちろんそれ以外の要素も多分にあるが、やはり「外見」は大事な要素だと思う。世の中には生まれた時から外見の魅力で異性を惹きつけられる男性がいるが、悲しいかな、私はあまりそれらには恵まれなかった。現代では整形手術により理想的な外見は作れるらしい。ただ、矛盾しているようだが、生を受けて以来の私の外見には私自身が愛着を持ってしまっている。だから、整形はしたくない。ならば、内側から変えていくしかない。その需要と合致しているのが、ウエイトトレーニングなのだ。トレーニングにより体つきを良くして、生物としての強さを持てば、女性は寄ってくるのではないかという短絡的な思考に基づいている。


 ただ、今のところ、女性から筋肉を褒められたことはない。男からは良く褒められるから、不思議なものである。そして、いまガタイの良い若者たちを見ている私は、正直、劣等感を抱いている。全裸で向き合っているため、否応にも体つきの違いを突き付けられる。まだ足りない。私はもっと強くならねばならない。こういう感情を抱いているあたり、私がトレーニングを続けていられるのは、「外向的」な要素の方が強いのだろう。サウナ後のぼーっとした頭で、私は帰宅後のトレーニングメニューを考えているのだった。