近似トレバ虚構

実験的創出Blog

憤りSeptember|叙事情#8

 
 二〇二三年九月二日、土曜日の朝八時。今日は休日ではあったが、皮膚科に行くため朝早い時間から家を出る。この後、私は少々不本意な経験をした。その経験により、現在の私の人間性が露呈されることとなったため、少し書き留めておきたくなった。
 
 皮膚科までは自転車で二十分ほどで着くが、診察が始まるのは九時からである。着いたとしても、三十分ほど待つことになる。ではなぜこんなに早く家を出るのかと言うと、九時前に受付が行えるからだ。
 私は平日は十八時以降まで仕事、さらに日曜日は休診である。よって、有給を取らない限り、私は土曜日しか診察を受けられないわけであるが、土曜日も九時から十三時の間しか開いていない。当然、私と同様の人間は多く存在し、土曜日の皮膚科は常に多くの待ちがある状態になる。下手をすれば、たった薬をもらうためだけに二、三時間待たされかねない。
 読書や勉学など、時間を過ごす手段はいくらでもあるのだが、せっかくの貴重な休日である。家でゆっくりと過ごしたい気持ちは、ご理解いただけるだろう。よって、可能な限り早く受付を済ませ、待ち時間を最小限にしようという試みを私は行いたいのだ。
 
 八時十五分、皮膚科に到着した。駐車場の一台分の枠をそのまま駐輪場とした場所に自転車を置き、入口へ歩いて向かう。どうやら自分が一番のようであった。入口は自動開閉のドアであったが、自分がその前に立ってもドアは動かない。ガラス張りの自動ドアには「受付は八時三十分より」という張り紙があった。仕方なく、ドアから数歩離れた手すりに寄りかかって、持ってきた本を読み進めることにした。
 
 十分ほど経った時に、駐車場に一台の軽自動車が停まり、降りてきた老夫婦が私のいる入口の方へ向かってきた。私の目の前を通り過ぎ、そのまま自動ドアの前に二人が立つが、ドアは動かなかった。もしこれでドアが開いたら、先に受付されてしまうと一瞬焦りが生じたが、すぐに引っ込んだ。
「これって受付できないんですか? 前来たときはできましたけど」
 夫婦の女性から私に尋ねられる。私は時計を見て、今が八時二十六分だと確認した。
「八時三十分になったら、受付できるんじゃないですかね」
「あぁ、そうですか。分かりました」
 この程度の会話を交わしたのみであったが、後から振り返ると、私の一番の予約が脅かされかねなかっただけに、この女性に対してほんの僅かな敵意を向けていたかもしれない。
 
 その直後に入口の奥から職員が出てきて、自動ドアの奥に飲食店で名前を記入するような受付用の名簿用紙が設置された。職員が自動ドアの前に立っても開くことが無かったため、まだ中へは入れず、受付もできなかった。
「名前、書かれないんですか」
 先ほどの女性から再び尋ねられる。「書かないのなら私たちが先に書きますよ」と遠回しに伝えられている気がして、すでに十〇分以上待っている私は少しだけ苛立ちを覚えた。
「まだドアが開かないですよ」
 少し冷たい口調になってしまった。我ながらなぜこのような些細なことで気に障るのか不思議であった。
「あぁ、そうですか。すみませんね何度も」
 少し圧を感じさせてしまったのか、女性は「すみません」と口にした。
 
 八時三十分を過ぎた。この時、私はてっきり職員が一度入口に来て、受付の開始を案内すると思っていた。よって、職員が来ないということはまだ自動ドアは開かないのだろうと解釈して、本を読み続けていた。
 その一、二分後、バイクに乗ってきた一人の男が、入口手前に立っていた私と老夫婦の横を通り過ぎて、自動ドアの前まで歩いてきた。その男が自動ドアの前に立った途端、なんと自動ドアが開いたのである。男は何食わぬ顔でそのまま中へ入り、受付名簿の一番目に名前を書いてしまった。
 私は慌てて本を閉じ、その男の後ろに並ぶ以外に何もすることができなかった。男の真後ろで「ちょ…ちょっと…」とはぼそぼそ言っていたかもしれない。
 焦りに引き連れられるように、だんだんと憤りが湧いてきた。先に待っていた私と老夫婦を無視して、そそくさと名前を書いてしまった男の配慮の無さへの憤り。
「私はあなたよりずっと前から待っていたので、先に書かせてもらえませんか?」
 この一言を発することができない自分の非力さへの憤り。そもそも「配慮の無さ」や「先に待っていた」という言い訳が通用しない、過程がどうであれ「早い者勝ち」の結果論に軍配が上がってしまうこの社会構造への憤り。
 
「ついさっきまでドア開かなかったんですけどねぇ」
 名前を書いている男の真後ろで、私の後ろにいた先ほどの女性にこう伝えるのが精一杯であった。私なりの皮肉のつもりであったが、おそらく男には全く響いていないだろう。男が書き終わって列から抜ける。私は名前を書く前に「No.1」の欄に書かれた男の名前を睨んだ。名前を覚えてやると一瞬意気込んだが、こんな無駄なことに頭を使えばまた自分が損するだけだと我に返った。
 
 名前を書き終わり、また元の手すりに寄りかかると、駐車場に停めたバイクにまたがりヘルメットを着けている先ほどの男が視線の先にいた。今にも立ち去りそうな様子である。
「気遣いもせずに名前を書くだけ書いて診察前までぶらつこうって魂胆かい。そもそもバイクは駐輪場に停めろよ」
 こんなことを心の内で愚痴りながら、私は舌打ちをした。
 
 休日の朝から思うように行かず、正直不愉快な気分になっていた。思えば、先ほどから些細なことで気に障っているのはここ数日「思うように行っていない」からかもしれない。直近だと、昨日は作成した資料について何度もダメ出しされた。帰りに駅で学生と思われるフィリピン人に呼び止められ、学費が足りないと千円でお菓子を買わされたが、後からそれが詐欺まがいの組織的な金稼ぎだと分かった。「外国人 お菓子売り」と検索すると、まさに自分がその時手に持っていたものと全く同じ包装のお菓子の画像が何枚も出てきて、虚しくなった。優しさに付け込んだあの外人に憤り、また自分の優しさを恨んだ。
 その翌日の朝に先ほどのような不幸があり、心が荒んでいたのかもしれない。
 
 その後、連なるように車が駐車場に何台も停まり、何人も受付を済ませた。診察十五分前にして、すでに十人ほどいそうである。皮膚科に来る時までは涼しかったのだが、待っているうちにじめっぽい暑さを感じ始めていた。車で来た人々はクーラーの効いた車内でくつろげるだろうが、私は外で待っているほかなかった。憤りと暑さが体を侵し、本の内容もほとんど頭に入らない。
 その状況にさらに苛立ちそうになった時に、入口の方から職員の女性に声をかけられた。ここに通い始めている時からお互い見知っている方だ。
「外暑いでしょ。あまり変わらないかもしれないけど、なか入って座っていいよ!」
 その一言がとてもありがたかった。一人で悩みを抱えている時、「誰かと繋がる」というだけで多少の救いになるとこの時知った。
 
 入口から待合室まではもう一つ自動ドアがあり、そちらはまだ開かないようであった。待合室は当然クーラーが効いているはずだが、狭い入口にはクーラーは無くて確かに涼しくはない。ただ、日が遮られていることと座れる椅子があるというだけでも十分だ。本の内容は頭に入るようになった。
 数分後、先ほどの男が再び姿を現した。男は息子と思われる三、四歳ほどの坊主頭の子どもを連れていた。入口に入り、私の横を通って先ほどと同じように自動ドアが開くかどうか確かめていた。今度は開かなかった。今度からはいつ自動ドアが開くか分かるように、ドアの目の前に立って待っていようと肝に銘じた。
 
 そこからは問題なく診察を受けられた。八時五十分ごろに案内があって、待合室に入り、一番目の親子が呼ばれる。その後に自分が呼ばれ、九時十五分ごろには薬局へ向かえた。
 会計待ちの時に、隣に先ほどの男とその子どもがいて、仲の良い様子がうかがえた。この男は少し配慮が足りない一面があるが、子どもと遊ぶ親の一面を見ると、日ごろの苦労を察することはできた。平日は自分と同じように働き、その上で子どもの面倒もみて、休日も子どものために今日のように朝早くから皮膚科に受付に来る…。
 ある一側面だけで人間を評価してはならない。改めてそう思わせられる出来事であった。ただ、親の一面を知ったとして、自分がされたことを許せるほど、私はまだ大人になり切れていなかった。
 
 薬局で待つ間に、室内に響くラジオで竹内まりやの「September」が流れていた。
 
  私一人が傷つくことが
  残されたやさしさね
 
 前後の文脈は定かではないが、この一節が妙に耳に残った。
 憤りに始まる九月。今年ももうあと四か月。