近似トレバ虚構

実験的創出Blog

はけ口|叙事情#1

 

「…はい。K教授による鍾乳洞の保全に関するお話でした。ありがとうございました。ここから、参加された皆様からのご質問を受け付けます。すでに時間がおしてますので、ご質問はお一人様一つとさせていただきます。」


 私は現在取り組んでいる事業の関係で、とある地域の鍾乳洞の保全についての講演会へ出席している。登壇者は関東の大学で、景観保全を専門としており、今回のような講演を精力的に行っているらしい。講演の内容はやや専門的で難解だと感じたが、スクリーンには調査の過程で撮られた写真が頻繁に映し出され、素人である私でも視覚的に状況を把握することができた。ただ、いかにも大学教授らしい堅い語り口で、昼食後であったこともあり、少々眠気を抑えられない場面もあった。ともかく、この地域の自然環境について理解が深められた良い機会であった。もう少し詳しく知りたい箇所に関しては、質問もしたいと思っていた。


「それでは、まずはこの会場からご質問を受け付けたく思います。ご質問のある方は、挙手でお知らせください。」


 思い出した。この講演会は対面とオンラインのハイブリッド形式であり、この対面会場以外にも、もう一つ地元の人らが集まる遠隔会場があり、そして全国各地からのオンライン参加者がいるのであった。私は県外の参加者ということになるが、私のいるこの会場はほとんど地元住民のようである。この地域は数年前に大規模な豪雨災害に見舞われ、今もなお復興が続く箇所もある現状にあった。豪雨に伴う土砂流出により甚大な被害があり、鍾乳洞もその影響を受けた一つであるため、このような講演会が設けられているわけである。よって、この講演会に参加する地元住民は、深く心身に刻み込まれた明確な記憶と意識を持って参加しているはずであった。その背景を考慮すると、よそ者である自分が最初に質問を投げかけるのもいかがなものかと思われたため、二、三人質問した後に自分も続こうと思った。そう考えているうちに、ただ一人手を挙げていた白髪の男性へマイクが渡される。


「先生、お話しありがとうございます。先生がおっしゃった鍾乳洞の管理基準についてお聞きしたいのですが、私も少し関わっておりまして……」


 そこまでは聞こえていたのだが、それ以降は講演の内容以上に専門的であったため、聞き流す程度にし、今回得た知見を自分のために咀嚼することに努めた。その男性との質疑応答が終わると、この会場よりもむしろもう一つの遠隔会場において質問を希望する人が多いとのことで、そちらへ発言権が移された。遠隔会場とは、講演で用いられたスクリーンを通してやり取りする。一人の白髪の女性が大きくスクリーンに映し出される。


「先生、ありがとうございました。先生にお聞きしたいのですがね、結局私たちの鍾乳洞はどうなるのでしょうか。私は六十七年ここに住んでますがね、これほど辛い毎日を送ったことはないです。ここは緑豊かな自然と美しい川と森と鍾乳洞がありましてね、私はそれらに囲まれて育ってきたわけです。その美しい自然がですね、今やボロボロになってしまっているのですよ。今でも雨が降ったときは、いつまた土石流が流れてくるのか怖くてしょうがないんです。でもね、こんな大変な時になった時に、お役人さんは何かしてくれましたか?もう何年も経ったのに、国は全然進めないじゃないですか。こんなに土石流が流れるようになったのも、国が森をどんどん伐採したせいじゃないですか。それなのに…」

「すみません!時間がおしてしまっているので、手短にお願いします!」

 セッティングの不備か別の理由か、司会の声は届かない。

「私はね、お役人さんたちに言いたい。私はこの土地を愛しています。お願いですから、もうこれ以上私たちの土地を荒らさないで欲しい。荒らしたからには、その始末を早くしてほしい、私はそう言いたいわけですよ。私は」
「ごめんなさい!他にも質問される方がいますので、今のお言葉はコメントとして重く受け止めさせていただきます。ありがとうございました。」


 司会がオンライン会議のホスト権限で、遠隔会場のマイクをミュートにした。音声が切れてもなお、スクリーンに映る女性の口は動いていた。その後、司会は次に移ろうとしたが、大学教授は「一言だけいいですか」と言い、「今の女性のコメントを真摯に受け止め、研究者として少しでも状況を改善しようと懸命に取り組んでいきたい」という旨の言葉を語った。


 その後、一般のオンライン参加者からチャットに送られた質問へ大学教授がいくつか回答した後、再び遠隔会場で質問希望があるとのことで、細身で七十代ほどの男性がスクリーンに映される。


「私はですね、やはり今回のことはダムのせいだと思うんですよ。鍾乳洞やら住宅街やらに土石流が流れたのは、ダムが水を放流したからでしょ?ダムはですね、自然に逆らっているんです。自然を壊して、無理やり作ったものが、結局我々を苦しめてるじゃないですか。そんなことも考えないでね、国土交通省のやつらは勝手に開発を進めているんです。あいつらはね、馬鹿ですよ!自然のことなんか気にしないで、自分たちが良ければそれでいいと思ってる。そんなことじゃ、日本はどんどん廃れていきますよ!」
「すみません、手短にお願いします!」
「私の言いたいことはただ一つ。ダムは無くすべきだ、ということです。そうしないと、この国は悪くなるばかりです。」


そういって、男性はマイクから離れた。司会が口を開く。


「ありがとうございました。残念ながら、この場に国土交通省の方はいらっしゃらないので、今のコメントを直接届けることはできませんが、重く受け止めさせていただきます。」


 その後、対面会場にて一人の男性が手短に鍾乳洞の設備に関して質問し、質疑応答、および講演会は終了した。結局、私が質問をすることは無かった。


 帰り路、私は質疑応答の間に抱いた「違和感」について考えていた。遠隔会場にいた二人の発言の間、私はその内容とあの場が噛み合わない感覚を得ていた。「違和感」と言うべきか、「不調和」と言うべきか。無論、地元住民としての彼らの声からは熱意や憤りが十分に感じられ、私も真剣に耳を傾けていた。しかし、彼らは誰と話していたのだろうか?発言の内容は明らかに、今回登壇した専門家が答えられるものではなかった。参加者全体に向けて語っているようにも思えなかった。二人目の男性は特定の名称も出した辺り、明確に政府に向けた発言であるように見えた。ただ、その声は決してそこへ届くことはない。届くことがないからこそ、あの場で叫ぶしかなかったのではないか。一人目の女性も、「役人に言いたい」と言っていた。しかし、あの場に役人はいなかった。役人はいないが、あの場を借りてでもどうしても言いたいことがあった、それは事実である。いや、これは私の想像であるが、役人や政府だけでなく、もっと何か…超人的なものに、彼らは思うところがあったのではないか。


 残酷だと思った。災害を経験した誰もが、あのような悲嘆や憤りや無力感を抱きながら、私と同じように生きようとしていることを想像すると、ほぼ無意識に「不公平」という言葉がよぎった。そしてすぐに、この言葉が適切かどうか分からなくなった。彼らには、本心を吐露する場があまりにも少なすぎるのではないか。だから、発言と場が乖離した今日のような状況が生まれるのではないか。事態が恢復できなくとも、本音を語るだけでも精神的に楽になれるとは、心理療法などではよく聞く話である。私は、被害の状況などの災害の表面しかなぞれていなかったが、その被害を受けた一人一人の内面にこそ目を向けるべきではないのか。彼らは決して届かない”何か”へ叫びたい想いを抑えながら、今この瞬間も生きているのである。そのわだかまりは一生尽きないのかもしれない。しかし、だからと言って、それを放っておくのは取り返しのつかない崩壊すら招きかねないだろう。彼らには、そして私たち一人一人の人間には、自由で開かれ包み込む”はけ口”が必要なのだと思った。現代に、その役割を果たせているものはあるだろうか。