近似トレバ虚構

実験的創出Blog

交響的セミナー論|出力#8

 

 

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 会社の先輩に勧められ、私はとあるセミナーに参加した。聞いた話では、今回の講師はこの界隈では名高い人らしく、国会に参考人として招致されたこともあるとのことである。二百席ほどある会議室を、空き一つなく埋め尽くしている様子からも、その有名さを伺わせる。私はそれほど勉強熱心な性格ではないのだが、まだ新米の扱いである以上、業界のことを吸収する体勢は常に取っているつもりである。

 

 講師がスクリーン前に登壇し、会場からの拍手で迎えられる。講師が口を開き始めた途端、会場のいたるところから紙をめくる音、タイピングの音、ペンをクリックする音、走らせる音、それに伴うスーツのこすれる音が響き渡り、私は静かにその交響曲に耳を傾けていた。講師が先導する光景からも、さながらオーケストラのようである。

 

 セミナーの内容を一言一句書き漏らさないこともできる。ただ、ノイズと旋律は聞き分ける必要がある。私は音楽の知識に関しては素人同然であるが、盛り上がりを見せるパートやいわゆるサビにとらわれずに曲を聞くようにしている。目立たない細かな音にこそ、私と講師が言葉を通わせることのできるものがある。セミナーにおける主旋律はスライドである。講師の伝えたいことは画面に詰まっているであろう。スライドの内容をまとめた資料が配布される場合は、「よし、大事な要素は私の手中におさめられたぞ」と安心して帰路につくだろう。しかし、その資料と私の脳は繋がっているだろうか。配布資料は楽譜である。楽譜を活かすには技術が伴う。果たして私はその楽譜通りに演奏を奏でる技術を得ているだろうか。その日手渡された楽譜を、その場で全て演奏しきる人はその道のプロでない限り不可能であろう。だから、私はその楽譜を自分の技術と照らし合わせ、合致した部分をメモとして抽出するのである。これで、資料と脳を繋げることができる。得られた知識は、脳を介して血となり肉となる。

 

こういうわけで、ノイズと旋律は聞き分ける必要があるのだ。自分の演奏できない部分は私にとって未だノイズである。自分の技術に見合った知識こそ、今の自分に有益なものである。ただ、歩みを止めない限り、あらゆるノイズは旋律になり得る。「成長する」ということは、かつてのノイズを旋律と感じられることである。少なくとも、私はそう思っている。

 

この考えのもとで、すでに四十分経過したセミナーにおいて、私のメモ帳には未だ何も書かれていない。これを見て人は私を不真面目だと決めつけるだろう。しかし、この世に同じ音は一つとして無いのだ。