近似トレバ虚構

実験的創出Blog

重い腰を上げる|出力#7

 

 

 

 

重い腰を上げるのに、実に体感一時間ほどかかった。実際には十分とて経っていないはずであるのだが、十分のランニングが普段の生活一時間分の消費カロリーであるがごとく、この腰を上げるまでの十分間、私の心、体、脳は忙しく駆け回っていたのであった。

 

きっかけは何気なく訪れる。特段何かに追われている時でもなく、かといってそれほど暇でもない時に、「やった方が良いこと」は我々の頭で産声を上げるのだ。「やった方が良いこと」という表現が肝要である。「やるべきこと」ほど脅迫的でなく、「やりたいこと」ほど自発的でもない。should でもwant でもない。「良い」ということは私に何かしらの得をもたらすのであろうが、「やりたいこと」に至らない所に多少の億劫さを感じさせる。「やった方が良いこと」というニュアンスは、果たして日本語以外で表現し得るのだろうか。この曖昧さ、筋を通さない感覚は、日本人特有なのではないか。

 

ともかく、この「やった方が良いこと」は、その性質がゆえに我々の行動計画に干渉する。現在、手が空いていないわけではない。時間もそこそこにある。行えば「良いこと」だ。だが、「やりたいこと」ではない。

 

 優柔不断な人格を持つ人であれば共感していただけるだろうが、数分をもって決め手に欠ける時、脳内に決断を助ける天秤が下りてくるのだ。まさに、天の秤である。「天秤」と名付けた者も、この感覚をもって名付けたのではあるまいか。脳内天秤の片側の皿には「利益」を、もう片側には「不利益」をのせる。しかし、アイデアはつい先ほど産まれたばかりであるため、まず「利益」と「不利益」を考える必要がある。一つ、また一つ、皿にのせていく。ここで大抵「あとどのくらいのせれば良いのだろうか」と考えるようになる。この過程で、考えることが面倒になり止める者と、「利益」を十分に感じられて腰を上げようとする者に分かれる。そう、この段階でようやく腰を上げようとするのだ。これだけでも、我々の腰がいかに重いものなのかは理解していただけると思う。

 

 腰を上げようとする、すなわち「やった方が良いこと」を実行に移す段階に入る。ただし、実行に至るまで、自由落下のごとく自動的に進まないことは明白である。我々はまだ登山の中途にある。一歩一歩、足の重さ、胴体の重さ、頭の重さ、そして無論、腰の重さを痛感しながら、大地を踏みしめていく。ゆえに、その一歩には決断が伴う。「これ以上進むべきだろうか」、「これは本当にやりたいことなのだろうか」。我々はまだ、脳内天秤の裁量に身を委ねていたのだ。無論、この段階で引き返す者が現れる。

 

 決断は総合力を要する。物事の善し悪しを見抜き、自身の感情を捉え、判断に伴う知識を引き出し、思考する。そのいずれにも、労力を必要とする。我々は常に己と語り合いながら登山をしている。「この山に登るべきか」、「まだ登り続けるのか」、「登った先に何があるのか」、「次はどの山に登るのか」。我々は一分、一時間、一日に何度登山をするのだろう。だから、我々は眠るのだ。起きてまた幾度の登山をするために、たっぷり休息を取らねばならぬのだ。

 

 私が思うに、人類がさらなる進化を遂げるには、まず腰を軽くすることから始めるべきだろう。地球を管理し、宇宙にまで羽を伸ばすには、この腰は重すぎる。