近似トレバ虚構

実験的創出Blog

公園の「場」|出力#9

 

いつ頃からか、気づいた時には、公園に足を踏み入れ難くなっている自分がいた。

 

子どもたちが遊んでいたり、学生服をまとった若者が談笑していたり、子ども連れのママ友同士でベンチに座っていたりする姿を見ると、公園へ入る気持ちが冷めてしまう。まるで、目に見えない「関係者以外立ち入り禁止」のテープが張られているかのごとく、その「場」は彼ら彼女らによって完成されている、と私は感じてしまうのだ。

 

私が公園へ入る際に明確な目的を持ち合わせていないことは、要因として大いにある。少し心身を休めたい時や、散歩をする時、たまたまそこに公園があったということが常である。その目的の”強度”が、私と彼ら彼女らでは大きな差があるというのだろうか。彼ら彼女ら一人一人を見ると、その”強度”はさして私と違わないだろう。私と彼ら彼女らの違いは「集団性」にある。弱い”強度”の目的が、他者と共有されることで互いに作用し、一つの集団が持つ目的として、その”強度”が強化される。私一人の目的強度と、「集団」の目的強度に明確な違いを感じさせるのは、この仕組み故であると私は考えた。現に、公園の「場」を形成しているのはほとんど「集団」である。

 

別の理由として、特に私は子どもへ気遣ってしまうことから、私の「原体験」が影響していることが挙げられるのではないだろうか。私も小学生の頃は頻繁に公園へ通っていた。友人や家族と共に。ただ、特に友人同士で遊んでいると、時に高校生ぐらいの風貌をした者が複数人やってくることがあった。そうして、我々が形成していた「場」は彼らに覆されるのである。これは、先ほどの”強度”の問題ではなく、単に年齢の上の者が威厳を持つというヒエラルキー的社会構造の結果に過ぎない。我々はこの現象、そして彼らそのものに恐れをなしていた。これが私の原体験である。目上の者が目下の者の「場」を壊す。それも、目上の者の意思の有無に関わらず、社会構造により自動的に起こり得る。その事実に今の私はまた恐れをなしている。幼少期に「場」を壊された私が、壊す側に回ってしまうかもしれない。いや、現に何度か壊してしまったと思う。

  

いつだったか、ある秋の日に私は一人の友人とともに公園へ足を踏み入れたことがあった。ただベンチに腰を下ろして話をするという、きわめて希薄な目的であったが、そのベンチの少し手前で遊んでいた子どもたちは、我々に視線を向けたのち、どこかへ行ってしまった。その時の視線には、複数の感情と思考が複雑に入り混じっていたように思えた。我々への恐れ、憤り、自分の無力さ、世の中の不条理さ…。

 

あの時、私が高校生らに向けていたのは、この視線だったのだろうか。私はいつ、この視線を向けられる側の人間になったのだろうか。そう考えているうちに、私はまた、あの公園をよそ目に通り過ぎるのである。

そういえば、あの秋の日は、ちょうど今日ぐらいの涼しい夕焼けが見えていたと思う。