近似トレバ虚構

実験的創出Blog

メダルゲーム|夢判断#4

 

 

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とあるショッピングモールの衣服エリア。その一角に、8畳ほどの広さのゲームコーナーがあった。今は見なくなったデータカードダス機を始め、子どもがボタンを必死に連打する様を披露する昔ながらのメダルゲームもある。

そこに私もいたのであるが、目線が少々低いようである。そして、ゲームに向かう男を見上げていたことで確信した。これは、幼い私の記憶から生まれた夢。

確かに、幼少期の私は、決まって毎週月曜日の夜、ショッピングモールのゲームコーナーに通っていた。今になってその記憶が夢として呼び起こされるとは、よほど私の脳は睡眠時の情報整理に勤しんでいることがうかがえる。いつも強烈な夢ばかり見せられる私であるが、今夜は軽くノスタルジーに浸らせてもらおう。

 

夢の中の私はすでにメダルを手にしていた。蛍光グリーンのカップに入ったメダル、100枚はあるだろうか。今思えば、子どもの頃の私にとって、メダルは貨幣とほぼ等価なものであった。むしろ、物欲の無かった私は興味の無いものしか買えないお金より、楽しいゲームをさせてくれるメダルのほうに価値を感じることさえあった。お金が増えることより、メダルが増えることのほうがゲームの麻薬作用も相まって快感であったのである。ただ、当時は元手のメダルを親から与えられていたため、その錯覚が許されていたが、年を取った今ではメダルもお金でしか買えない事実からどうしても逃れらない。それに、今はお金の重要性を十分実感し、メダルの虚構性すらも理解できてしまった。あの頃のような純粋にメダルゲームを楽しむ心は、もう半分以上、失くしている。

 

大砲を打ち、海賊船を沈めるゲームでメダルの資金調達をしたところで、私は別のゲームに移った。見慣れない、しかし古臭いゲームがあった。五つの果物の中から一つ選び、ベットするメダルを自由に投入した後、ランダムで果物が選ばれ、自分の果物と同じものが選ばれると見事ベットした枚数×倍率のメダルが排出されるという、簡易ギャンブルゲームである。リンゴ、ブドウ、バナナ、パイン、メロンの順に倍率が高くなっていく。子どもは当然多くのメダルを得るために倍率の高い果物を選ぶが、無論当選率は低い。

私はこのゲームをすることにした。メダルを入れる。夢の中の私は見かけは子どもと言えど、干渉している私はすでに育っている。安易に高倍率の果物は選択しない、ここは間を取って中倍率のバナナにしよう。バナナへ7枚ベット。ベット枚数を確定させ、ルーレットが始まる。何のひねりもない、丸い赤の明かりがすばやく流れていく演出が果物を選ぶ。ーーブドウ。外れである。当然何も出てこない。こんなものでも楽しめる子どもは、ある意味娯楽を嗜む天才かもしれない。負けっぱなしも面白くないため、再戦。今度は勝ちを狙ってリンゴ…、いやもう一度バナナに賭ける、今度こそバナナだ。このゲームに対する断言は、全て根拠のない空虚なものと分かっているはずなのだが。バナナへ15枚ベット。ルーレット開始。ーーーリンゴ。もう一度行う。低倍率が連続で来ているから次は高倍率が来そうだ。パインへ10枚ベット。回転。ーーーブドウ。今度こそ。パインへ10枚ベット。回転。ーーーバナナ。やっぱりバナナだな、もう一度バナナよ来てくれ。バナナへ10枚ベット。回転。ーーーパイン。ここでメロンだ!メロンへ20枚ベット。回転。ーーーリンゴ。頼むから一度は勝たせてくれ。リンゴへ10枚ベット。回転。ーーーブドウ。

 

メダルが尽きた。思えば、私はこんな単純なギャンブルに振り回された人生でなかったか。単純な運任せを繰り返しているだけではないか。自分で決断して人生を歩んだことがあったか。選択を与えられ、決断させられ、人生の舵を他人に譲ってきただけではないのか。選択を生み出したことがあったか、決断を”した”ことがあったか、舵を握ったことがあったか。

空っぽのカップを見つめて、そんなことを思い巡らせた。