近似トレバ虚構

実験的創出Blog

秋の桜|現像#7

 

 

 「桜」という言葉には、色が定着している。「桜色」という言葉があることがそれを証明している。その色とは、当然、春に咲かせるサクラの花の色である。サクラの花が満開に咲き誇る様は、春という季節を代弁するものとなり、時に「日本」を象徴する光景でもある。それだけ、サクラと日本のアイデンティティは深く結びついている。


 ただ、サクラが「桜」となり得るのは三月から四月頃のほんの数日である。サクラはその数日の間は、世間を席巻する程の魅力を放ち、注目を浴びる。また、人は「桜はその散りぎわまで美しい」と称し、その感覚は日本人の美的感覚を説明する上で欠かせないものとなり得る。


 では、散った後の「サクラ」に注目する者はどれほどいるだろうか。「桜」が散った後のサクラは、まるで他の植物と同化している。夏には新緑として緑の葉をつけ、秋には紅葉を散らせ、冬は枝を剥き出しにする。なぜ、サクラは春にのみ「桜」になろうとするのだろうか。この問いは視座を変えれば、なぜ我々人間は「桜」にのみ強く惹かれるのか、ということになる。

 

 このように俯瞰してみれば、春にかけるサクラの情熱には目を見張るものがある。一年のうちの大半は他の植物に同調しているが、春の短期間のみは自分が最も目立とうとする。それを毎年繰り返している。私はこの事実に途方もない意志を感じるのだ。世間も世間で、春にあれだけ注目していたサクラが散ると、以降ほぼ目を向けなくなっている。周りを見渡せばどこかにサクラがあるはずであるが、夏のサクラ、秋のサクラ、冬のサクラという言葉はあまり見られない。

 

 サクラは何を考えているのだろうか。春以外でも、サクラはサクラなりに努力しているのだろうか。そんな、答えの出ることのない問いを抱きながら、今日は「秋の桜」に目を向けている。