近似トレバ虚構

実験的創出Blog

過去の望み|思索#1

 

過去の望みが叶うことを望まないのは、我儘と見なされるのだろうか。「過去」というのは数日前や数か月などのものではない。数年前、数十年前の自分が抱いていた望み。それが時を経て叶う。例えば、小学生の時に抱いた「宇宙に行く」という夢が叶う。より俗な望みであれば、二十代に夢見たブロンドヘアーの美女と恋に落ちることが、四十代になってひょんなことから叶いそうになる。一見、素晴らしいことのように思えるが、そのことが「今の自分」にとっての望みでなかったとしたら?それが叶ってしまうことで、かえって厄介になるとしたら?

 

私は「偶然的に望みが叶う」ことを「神の恵み」と受け取る思想を持っている。なぜなら、自分はそれに向かって努力した覚えが無いからだ。努力していないことが叶う、好転するということは、自分以外の誰かの計らいによるものだと考えるのが自然である。だから、「神の恵み」というのが仰々しいにしても、「誰かからの恵み」とは考えてもよいはずだ。その恵みを「厄介」とするのは、恩義がないと見なされてもおかしくない。しかし、本当に望んでいないことなのだ。望んでいたのは「過去の自分」であって、「今の自分」ではない。

 

ここである疑問が浮かぶ。「過去の自分」と「今の自分」は別人なのか。考えるまでもなく、同一の人物である。では、「過去の人格」と「今の人格」は別人格か、と言い換えるとどうだろうか。人は常に変化し続けるとは言うが、「人格が変わる」という言い方をすることは限られる。そもそも、人格は一つなのだろうか。時に病的な表現で「多重人格」とは言うが、全員が「多重人格」である可能性もあるのではないか。その仮定を採用すれば、「過去の自分」と「今の自分」で人格の構成が変化することもあるのではないか。人格の「割合」と言っても良いかもしれない。人格の構成は生まれつきのもので、変化しないかもしれないが、そのいくつかある人格のうち、表層に表れる人格の頻度が「過去」と「今」で変わる可能性があるということである。そうなれば、「過去の人格」と「今の人格」それ自体は変化しないが、現れやすい人格は変わっているということになる。ただ、人格の構成は変化せず、人格ごとに異なる望みを持っていたとしたら、生まれた時から私は一生の中での望みを全て併せ持っていることになる。それはおかしい。やはり、人格は一生の中で新たに生まれては消え、消えては生まれることを繰り返しているように思える。つまり、そのときの環境によって人格の構成と割合は変化し、その人格がそれぞれ異なる望みを持っているので、表に現れる「望み」も変わっているように感じると考えられる。

 

話が大きく脱線したように思えるが、「過去の望みを望まない」という話に戻そう。­過去の望みを今の自分が望まないということは、自分の中での「(表の)望み」が変化していることを意味する。先の理論を用いれば、その「望み」の変化において重要なのは「人格」である。「過去の望み」が今の自分の「(表の)望み」でないとすると、その「過去の望み」を持っていた人格は、その割合が極めて小さくなっているか、すでに消えている。それで、別の人格の割合が大きくなっている、あるいは人生の変化によって人格の構成も大きく変わっているため、現在の「(表の)望み」も以前とは異なるということである。このことを踏まえて最初の問いを考えると、過去の望みが叶うことを望まないのは、確かに我満なのかもしれない。人格の変化は極めて個人的な問題である。その個人的な理由でかつての望みを受け付けないのは、他者から見れば理解ができない。他者にとっては、その人の「過去」も「今」も同じ人物なのだ。だから、「我儘」というのは正しい。そもそも、「我儘」という概念が他者を前提としたものである。他者との関係によって個人の事情がおざなりにされるのは、もどかしいものである。