近似トレバ虚構

実験的創出Blog

世界の証拠(下)|叙事情#6

 

 四階に着き、一通り歩いた。何度か人にぶつかりそうになった。それだけ私の歩幅は広く、歩く速度は高まっていた。私の中で確かな情熱を感じている。その情熱は冷たかった。熱く燃えたぎる炎ではなく、周囲の熱を奪って凍らせる冷たい炎。冷たかったが、今の私の動力としては最適だった。世界の熱を、活気を、幸福を、この炎で奪ってやりたい。ベンチで寄り添うカップルも、笑顔が溢れる家族も、青春を謳歌する学生も、往年の夫婦も、純粋無垢な子供も、この炎で凍らせてやりたかった。

 

 四階にもいなかった。私はさすがに諦めを感じていた。気づけばモールに入ってから三十分が経っていた。二人がカフェで食事していたとしても、もう帰っているかもしれない。三階へ降り、二階へ降り、一階へ降りて、エスカレーターからフロアの床へ足を下ろそうとした時。いた。目の前に。Nさんらしき顔と、先輩らしき後ろ姿。エスカレーターを降りて手前にあったのはあのカフェだった。そのカフェの最も外側で、二人が会話していた。見つけた。見つけてやった。ここで声をかけても良かった。ただ、私の足は止まることなく出口へ向かっていた。確信を持ちたかった。先輩の顔を見てやりたかった。そのカフェはモールの外の窓から中を覗くことができる。つまり、先ほどとは反対側の視点から見られるのである。私は足早とその窓へ向かい、店内を覗いた。確かに先輩であった。向かいの女性と楽しそうに会話している。私はしばらくそれを眺めていた。街ゆく人は今の私を不審者と見なすだろう。勝手にすればいい。どうせ最初からお前ら世界は私を拒むつもりなのだろう。

 

 二人を見つけて私が得たものは、快感でも、高揚感でもなく、絶望に限りなく近いものだった。世界が私を拒む、その証拠が目の前で繰り広げられているのだ。私をのけ者にしたその二人を「世界」と見なすのは、いささか飛躍し過ぎていると思うだろう。しかし、私にとってそれは確かに「世界」だった。「世界」の一部と言った方が適切かもしれない。「世界」の一部である二人が私を拒んだことは、「世界」が私を拒んだことと同じである。私に干渉するあらゆるものは「世界」の媒体であって、「世界」の意思が投影されている。二人が私を拒んだのは、先輩とNさんを駒に使って私を拒む意思を実現したことを意味し、あの人が私の恋人にならなかったのは、「世界」が私を幸せから遠ざけたという意思の表出である。私の人生に降りかかる全ての事象は、全て「世界」の意思が含まれている。そんな私でさえ「世界」の一部で、今もまさに「世界」の意思を実現する駒に使われている事実が、悩ましくて恨めしい。「世界」とは何だ。人の一生とは何のためにあるのか。「世界」の意思から逸脱することが、自由なのか。今言われている自由は、「世界」の意思というものに束縛された自由でしかないのか。「私」とは、いったい何なのか。

 

 

 気づけば、あの窓からはすでに立ち去り、駐輪場から自転車を出し、こんなことを考えていたのは自転車をこぎながらだった。とりあえず、家に帰ろう。私の人生は、明日も明後日も続くらしいから。